(はじめに)
竹島問題は、他の領土の問題(北方&尖閣)と比べて難解です。それは、その関連する島名が、単純ではない難解さがあり理解を難しくしています。この難解さが門外漢による参入を困難にしています。この島名変遷の難解さが、一種の参入障壁となっています。本稿は、それをなるべくわかりやすく伝えようとする試みです。これによって難解とされる竹島問題を、国民がよりいっそうの親しみを持って迎えられれば筆者としては望外の喜びです。
1(基礎知識)
・鬱陵島
朝鮮名;鬱陵島は、江戸時代は、おおむね「竹嶋」と呼ばれていました。
竹嶋―‐(幕末~)―→松島※1
※1 幕末頃に西洋から輸入されたシーボルト地図(1840年~)などの影響で、幕末~明治初期にかけて島名が「松島」に変わってしまいました。だれも意図しない島名変遷です。一種のミステリーといえます。1880年(明治13年)7月に日本外務省が派遣した軍艦天城の調査によって、当時の地図に表示されている「松島」は、鬱陵島であることが判明しました。
・現在の竹島
松嶋※2―→リャンコ島※3―→竹島(1905年)※4
※2 江戸時代は、おおむね「松嶋」と呼ばれていました。
※3 Liancourt Rocksの訛り。鬱陵島に「松島」の名前を取られた(上記※1)ので、通称;リャンコ島などと呼ばれていたようです。1905年(明治38年)2月島根県に正式に編入され「竹島」と命名されました。以下、現在の竹島は、竹島(LRs)と表記します。
※4(島名変遷の謎)
江戸時代には、竹嶋→鬱陵島、松嶋→竹島(LRs)であったとの歴史的事実は、専門学説的には戦前の1900年代の早い時期に判明していたのでしょう。しかし、そのような時期は「竹島問題」はありません。この歴史的事実が一般化した時期は、たぶん戦後「竹島」の領土紛争が表面化(1952年~)してからだと推定します。”なぜ明治時代には松島が、鬱陵島を指すようになっていたのか!?”このことは、リャンコ島が竹島と命名され、島根県に編入された1905年2月のころも、真剣に検討されていません(1904.11.30乙庶第152号)。つまり、この時にはリャンコ島が、昔の松嶋であった歴史的事実を、関係当局は知らなかったのです。
2(基礎年表)
1696年1月25日 鳥取藩、松嶋は領国(因幡国・伯耆国)に付属する島ではないと幕府に回答。
1696年1月28日 江戸幕府竹嶋への渡海禁止令を出す。
1840年 竹島(アルゴノート島)と松島(ダジュレー島)を描いたシーボルトの地図「日本図」発行。
1849年 フランスの捕鯨船 Liancourt 号が、竹島(LRs)を発見しLiancourt Rocksと名付ける。
幕末頃~ 日本海上に西から竹島~松島~リアンクールロックスを、描いたシーボルト系地図が出回る。例えば、1867年(慶応4年)勝海舟「大日本沿海略図」など。
1870年(明治3年)5月 佐田白茅「竹島松島朝鮮附属ニ相成候始末」
1877年(明治10年)3月 太政官指令「竹島外一島」を本邦外とする。
1880年7月 外務省、軍艦天城を遣わし竹島・松島を調査し、当時の「松島」の正体が判明する。ただし、外務省・海軍以外には直ちに周知されず。
1905年2月 当時リャンコ島を「竹島」と名付け島根県へ編入。
3(竹島外一島問題とは)
1877年(明治10年)3月明治政府の最高機関太政官は、”竹島外一島”は、本邦外との指令を出しました。このことについて、この竹島は、元禄竹島一件で問題となった鬱陵島であることには異論がありません。問題は”外一島”です。外一島は、「松島」であることにもほぼ異論はありません。しかし、この松島がどの島を指しているのかは争いがあります。なお、この問題の詳しい考察は、この問題のパイオニアである右サイドリンク<日韓近代史資料集>の太政官指令「竹島外一島」の項目を参照下さい。
一つ目は;竹島が鬱陵島なら、松島は、江戸時代松嶋と呼ばれていた島(竹島LRs=韓国名;独島)だという説です。この説は、この太政官指令発令の契機となった島根県の内務省への伺い書の添付書面となった「磯竹島略図」(→下記画像参照)から明らかだという説です。
二つ目は;そうではなく竹島は、元禄時代問題となった鬱陵島で、外一島(松島)は、将来※5鬱陵島と判明する「松島」だとの説です。この説は難解です。この頃主流の地図では、日本海上に、竹島(幻の竹島=元禄時の鬱陵島)と松島(正体不明の島)の二つ島が描かれていたことに起因しますが、ここでは、結論だけを覚えておいて下さい(詳しくは→下記前記事3と4参照)。
※5 この当時(1877年頃)主流の地図では、松島という島はあったのですが「鬱陵島」だとの地理的な知識はありませんでした。この松島が「鬱陵島」だと判明したのは、軍艦天城の調査などによって、1880年7月~1881年12月(明治13~14年)にかけてのことでした。
4 佐田白茅「竹島松島朝鮮附属ニ相成候始末」
1877年の太政官指令「竹島外一島」問題は、すでに詳しい考察がなされほぼ通説化しています。ここでは1870年(明治3年)5月の外務省役人佐田白茅の表題報告書について検討します。下記のような表題と説明文(一部)になっています。当時釜山にあった倭館へ派遣され調査したようですが、竹島松島の現地(鬱陵島など)へは行っていません。
「竹島松島 朝鮮附属に相成候始末」
此儀は、松島は竹島の隣島にて松島の儀に付、是迄掲載せし書留も無之。・・・<
(これをどう読み解くか!?)
この報告書では、驚くべきことにその題目が、「竹島・松島が朝鮮付属になった始末」と書いてあります。そして、説明文には、”松島は竹島の隣島で松島に付いては、これまで(朝鮮付属となった)書留(記録)はない”とあります。これはどう解釈するのだろうか!?
この文の「竹島」は、省略した・・・説明文以下の所に元禄うんぬんと書いてありますので、鬱陵島であることは間違いありせん。では、この文の「松島」とは、どの島なのか正体不明で且つ謎です。従来からこの松島は、現在の竹島(LRs)とは別の島だとかと説明して、その説明に苦慮してきました。しかし、これも一連の研究から、この「松島」も上記3で検討した将来鬱陵島と判明する松島(当時主流地図上の)であるということがほぼ断定できます。
(なぜそう判断したか!?)
ではなぜ、当時の外務省役人は、松島を朝鮮付属と判断したのだろうか!? これは、江戸時代(元禄時)の日本側の認識に基づいたものと推定できます。元禄時には、鳥取の商人たちは、米子から出港して松嶋~竹嶋(鬱陵島)へ渡航して、両島を利用していました。竹嶋渡航途次に利用していた松嶋を、日本側は竹嶋と一体と認識していたのでしょう。いわゆる竹嶋の「属島論」です。だからといって日本側が不利になるわけではありません。この「属島論」は、日本側の利用実績のみに基づいた属島論です。相手側が、転用して直ちに利用できるわけではありません。また、元禄時の幕府の禁令は、竹嶋(鬱陵島)のみを対象としたものだからです(それで事件は解決)。
(結論)
以上で4の「松島」をまとめますと、これも当時地図上の松島(鬱陵島)を朝鮮付属と判断したものにしかすぎませんでした。その根拠は、3(竹島外一島問題とは)の理由と同じです。
有名な「磯竹島略図」

【関連前記事】
1<竹島の日 竹島問題入門・基礎知識編>
2<竹島問題 江戸時代の「竹島一件」とは>
3<竹島問題 松嶋はどの島か?(上)>
4<竹島問題 松嶋はどの島か?(下)>
【参考書籍】
1島根県竹問題研究会『竹島問題100問100答』
これには、即座に韓国側から反論もあり、この書籍の出版は成功でした。この反論の翻訳版は<日韓近代史資料集>を参照されたし。
【外部リンク】
1<日韓近代史資料集>
2竹島.com<竹島には竹がないのになぜ竹島?>
3同<日本人、朝鮮人は現竹島をどのような呼称で呼んでいたか?>
4杉野洋明 極東亜細亜研究所<本邦初公開?大韓帝国勅令41号の石島は独島ではない証拠>