国策転換 南進・仏印進駐への背景

<国策転換 南進・仏印進駐への背景>
なぜ、シナ事変が日米開戦に至ったのか!?これは、歴史を考える者には、単純で且つ素朴な疑問です。その解明の一端になるような情報を入手しました。この「南進」(仏印進駐)は、東南アジアにある英米の既得権益(その植民地)侵害の恐れを生じさせ、それまで東亜地域の限定戦争だったシナ事変を、対米英戦へと発展させるキッカケを作りました。

1(シナ事変泥沼化→打開策を策定)
シナ事変(37年7月7日~)は、泥沼化しました。特にシナ大陸の奥地が広くて日本軍の物量が足りませんでした。加えて農村部では、共産軍が抗日ゲリラ戦を展開していました。また、戦争には目的があります。日本政府(近衛内閣)は、戦争相手の「国民政府対手にせず」(38年1月16日声明)ですから、勝つにしろ負けるにしろ講和する相手がいません。物量だけでなく、そういう意味でも泥沼化しました。さすがの帝国陸軍も困りました。さぁーどう打開するのでしょうか!?実は陸軍は、その打開策を一応は策定していたのです。

2(シナ戦線からの自主撤兵を決議)
帝国陸軍もバカではありませんから、シナ戦線の限界を感じていたようです。それで、40年(昭和15年)3月30日の陸軍首脳会議※1(発案;武藤章軍務局長)で陸軍中央は、40年中にシナ事変が解決しない場合は、41年初頭から順次・自主撤兵の方針をいったん決定しました。この事実は、この直後に南進政策に転じたことから、軽視されやすいのでしょう。あまり論究した文献がありませんでした(出典:下記1書籍238頁でやっと見つけました)。

※1 出席者:参謀本部から閑院宮参謀総長、沢田茂参謀次長、富永恭次作戦部長ら。陸軍省から畑俊六陸軍大臣、阿南惟幾陸軍次官、武藤章軍務局長。於いて:参謀本部会議室。

3(南進、仏印進駐へ)
しかし、その後ヨーロッパ戦線でドイツが、オランダ(5月15日)・フランス(6月17日)を降伏させて、快進撃を続けました。このドイツの快進撃に「バスに乗り遅れるな論」が出て来て、フランス領インドシナ(仏印)※2への南進政策が出て来ました。その結果、シナ戦線からの単純な撤兵論(上記2)はなくなってしまいました。

※2 フランス本国はドイツ軍に降伏し、ドイツはフランスの海外植民地経営を、その傀儡政権ヴィシー政府に管轄させました。本国をドイツに占領された仏印当局の立場は、弱くて不安定なものになっていました。

4(南進政策の策定→「時局処理要綱」)
南進政策は、フランスがドイツに降伏した6月17日から出て来ました。先ず6月19日に陸軍省軍事課から参謀本部への申し入れから始まります。これを受けて、参謀本部作戦課で原案が作成されました。7月3日陸軍省・部の首脳会議を経て陸軍案となり、その後・海軍にも示され陸・海軍の成案(7月15日)を得て、7月27日の大本営政府連絡会議で正式決定されました。「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」といいます。この国策が、爾後・北部仏印進駐→三国同盟→南部仏印進駐と、日米開戦へ至る重要局面に進捗します。

5(シナ事変~日米開戦までの主な流れ)
いま企画中の本シリーズのここまでの主な流れをまとめておきますと以下のようになります。今回は、以下の流れ図では<南進政策>までを見ました。次回以降もなるべく以下の時系列順に見て行きます。年表は、詳細に事実を提示することだけが良いわけではありません。逆に重要事実だけを抄出することにより、その全体像が把握できるときもあります。参照下さい↓。

シナ事変勃発(37年7月7日)→トラウトマン工作(37年11月2日)→「国民政府対手にせず」声明(38年1月16日)→シナ事変泥沼化→陸軍いったんシナ戦線からの順次撤兵を決める(40年3月30日)→ドイツ、オランダ・フランスへ侵攻開始(40年5月10日~)→オランダ軍降伏(40年5月15日)・フランス降伏(40年6月17日)→南進政策(上記4)→北部仏印進駐(40年9月23日)・日独伊三国同盟(40年9月27日)・・略・・→南部仏印進駐(41年7月28日)・・略・・→日米開戦(41年12月8日)

【関連前記事】
<年表 シナ事変~日米開戦まで>
<大本営とは? 戦前の国策決定システム>

【参考書籍】
1水嶋都香『日中戦争とノモンハン事件』
2川田稔『昭和陸軍の軌跡』
3日本国際政治学会編『太平洋戦争への道』6南方進出
4同編『太平洋戦争への道』7日米開戦

開戦前アジアの植民地
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【後続記事】
南進 仏印進駐と日独伊三国同盟>

【関連後記事】
歴史 日米対立の深淵>

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この記事へのコメント

  • 会社員(30)

    仏印、いまでいうベトナム・ラオスですが、ここに進攻する意味が全く分かりませんね。インドネシア(オランダ領)の石油目的で日蘭開戦ならまだ戦争目的が理解できますが、ベトナムに石油はありません。

    ここで世界地図を見ると、ソ連の両端にドイツと日本があります。ソ連にとって最悪のシナリオはドイツと日本の挟み撃ちにあうことです。実際、ドイツはソ連に進攻を始めていました。ここで関東軍が北進を始めればソ連はお終いです。

    ここで日本の内情を見ると、
    北進派=陸軍。陸軍はいつもソ連を警戒しています。
    南進派=海軍と近衛文麿。海軍の仮想的はアメリカです。
    結局、近衛内閣は南進を決断し、一番得をしたのはソ連です。近衛の側近にいたソ連のスパイが動いたとしか思えません。

    ちなみに1941年がゾルゲ事件ですので、この頃の近衛内閣はスパイの最盛期でした。

    2015年06月14日 00:04
  • 管理者Gくん

    投稿ありがとうございます。いわゆる南進(仏印進駐)ですよね。仏印には石油はないです。これは、会社員(30)さんも織り込み済みでしょうが「援蒋ルートの遮断」なんてのもありました。しかし、これもあまり納得できません。この時点で、陸軍がシナ事変を武力解決できると思っていたら、それこそ大バカ者です(笑)。外交の延長である(戦争の)目的がわかりません。

    北進論(陸軍)、南進論(海軍)が伝統的にあったようですね。翌年(41年)6月に独ソ戦が始まったときは、松岡外相が対ソ戦(北進論・挟み撃ち)を主張して近衛首相から排除されています。会社員(30)さんがおっしゃるように、ソ連が一番得をしています。これもゾルゲ事件と関連があるのでしょうかね!?。

    本文2に示したとおり、陸軍中央は、シナ戦線には限界があると、いったんは判断しています。そこでヨーロッパ戦線が急展開したので、それに便乗して南進政策へ転換した。この南進政策によって、陸・海軍は、対米戦へ向かうとは考えていなかったのでしょう(特に海軍は慎重)。結果的には、対米英戦へ向かう歴史的起点(本文4・40年7月)となってしまいました。そういう意味でこの時期は、非常に重要な時期だったと思っています。
    2015年06月14日 14:42
  • 会社員(30)

    「援蒋ルートの遮断」も考えてみればおかしな話です。「援毛ルートの遮断」なら分かりますが。

    Gくん様はご存じかと思いますが蒋介石の第一目的は『掃共』であって『反日』は二の次です。多くの日本人が誤解している(というかそう教育されている)のは日中が戦ったのではなく、支那大陸において国民党と共産党の内ゲバが激しかったので、日本は満州にいる自国民を守っていただけだ、という構図です。

    「蒋介石の後ろには英米がいる。鬼畜英米!」と煽ったのも確か朝日新聞だったはずですね。
    2015年06月15日 13:21
  • 管理者Gくん

    会社員(30)さん、投稿ありがとうございます。アメリカが国民政府(援蒋)だけでなく、共産党も援助していたことは若干は承知していました。蒋介石は、『掃共』>『反日』←だったんですか?。まぁー日本との終戦後には、国共内戦が本格的に始まっています。それを見据えたのでしょうか!?上記年表(過去記事)でも、シナ事変(37年7月7日)勃発後早くも39年12月には、第一次反共討伐作戦が開始されていますし。ここでも朝日新聞が出て来ますね(笑)。

    次回のテーマ、迷っています。最後5の流れ図によりますと、次は、三国同盟→日ソ中立条約ですが。ここでは先を急がず、少し遡って、日米(英)関係がそもそもどの時点から悪くなったのか!?その深淵から考えてみたいと思いました。自分ながら、このシリーズ<シナ事変~日米開戦まで>おもしろくなってきました。「日米開戦まで」(41年12月8日)のゴールは長くなりそうです。
    2015年06月15日 21:48

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