竹島問題 その解釈の変遷と帰すう

<竹島問題 その解釈の変遷と帰趨>
読者の方から、前記事<新書 竹島-もうひとつの日韓関係史> のコメ欄に投稿がありました。その回答を加筆修正して、現時点での管理者Gの竹島問題での所見を述べておきます。
a(属島論VS先占論か!?)
この竹島問題、突き詰めると韓国側「属島論」VS日本側「無主地先占論」を論拠としています。韓国側が主張している属島論は、果たして根拠があるのだろうか!? 管理者Gが考えている「属島論」は幅がありまして、いま韓国側が主張している属島”論”は、歴史的事実の裏打ちがなく即・歴史的権原とは言えないと考えています。このリアンクール岩礁(いまの竹島の西洋名)について、歴史的な支配の事実あれば(現状はない)、即・領土問題をも決する「属島論」に昇華するのですが。

b(「鬱島郡の配置顛末」で解決済み)
日本側の最大の論拠は、国際法に基づく無主地先占~領土編入手続きを経たことです(1904年9月~05年2月)。この竹島の帰すう問題についての、日本が竹島(当時リャンコ島)を島根県に編入した直後に生じたある事件の顛末で、解決していると考えられる一連の事実があります。現在、これについて韓国側からは有効な反論はなされていません。竹島の帰すう問題の肝は、日本が竹島(当時リャンコ島)を編入した時期の前後1900年~1906年(皇城新聞7月13日記事の「鬱島郡の配置顛末」※)ころの事実関係で判断すべきであるということです(理由→c)。

※事実関係は、島根県『竹島問題100問100答』Q37・Q84を参照。

c(竹島問題の時代による解釈の揺れ)
いまの竹島(旧松島)は、島根県に編入されるまでは無主地に所在していて(→2)、その評価は振り子が左右に振れるように無主地のなかで日本側に振れたり、朝鮮側に振れたりしていたのが歴史的事実だと評価します。時代の流れの順に示しますと。

1 最初、元禄竹島一件の時代までは、米子の商人の竹島(鬱陵島)への渡航の途次にある島として、日本側だけが利用していて、その振り子は日本側に振れていた。

2 元禄竹島一件の江戸幕府による裁定(朝鮮政府の竹島鬱陵島領有の主張を認め、”竹島”への渡海禁令発布)後~(専ら日本側の解釈によって)明治初期のころまで、朝鮮側に振れていた。旧松島は、米子~竹島(鬱陵島)へ向う途次にあったので両島をセットで考える傾向はありました。明治政府外務省役人・佐田白茅の朝鮮内探報告書(1870年明治3年)においても、竹島の隣島・松島について朝鮮附属となったようだが、”その書留(記録)はない”としています。(日本の)同時代人は、”解釈で”そう考えたということでしょう(この時期の朝鮮側の松島の支配状況は不明→a)。

3 幕末頃から流布したシーボルト系地図の錯誤(鬱陵島を松島とし、その西に竹島があると表示)の影響で、この付近の地理的知識が混乱しました。幸か不幸か、そのせいで旧松島(当時リャンコ島)と竹島(鬱陵島)の関係(これとて解釈ですが→2)が切断ないしは希薄化されてしまった。

4 折りしも、隠岐の水産業者中井養三郎からアシカ漁のため領土編入申請が出た(1904年~)。つまりこの時期(1900年~1906年)は、振り子が日本側に振れていた時期だった(→bへ戻る)。と管理者Gは、評価しています。

【関連前記事】
<新書 竹島-もうひとつの日韓関係史 >
posted by Gくん at 00:02気持玉(1)Comment(1)TrackBack(0)

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この記事へのコメント

  • 管理者Gくん

    ナイス気持玉プッシュの方、ありがとうございます。この竹島問題は、時代によって(主に江戸中期~明治中期まで)”解釈”に揺れがある。という趣旨でした。
    2016年02月04日 17:40

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