書評 竹島-もうひとつの日韓関係史・上

<書評 池内敏『竹島-もうひとつの日韓関係史』上>  
 表題書籍の気になる所だけを抄出して、論評を加えました。前後の文脈がわからない読者は同書籍を購入して参照されたい。
目次
第1章 「于山島」は独島なのか―韓国側主張の検証1
第2章 一七世紀に領有権は確立したか―日本側主張の検証1
第3章 元禄竹島一件―なぜ日韓の解釈は正反対なのか
第4章 「空白」の二〇〇年―外務省が無視する二つの論点
第5章 古地図に見る竹島―日本側主張の検証2
第6章 竹島の日本領編入―その経緯と韓国側主張の検証2
第7章 サンフランシスコ平和条約と政府見解の応酬
終章 「固有の領土」とは何か

第1章 「于山島」は独島なのか
韓国側は、于山島→石島→独島だと主張します。その妥当性の検証です。韓国古文献『東国文献備考』輿地考(1770年)などを示して、古文献に出て来る鬱陵島・于山島について、鬱陵島の一島説→鬱陵島・于山島の二島説→鬱陵島の一島説の流れがあると説明します。安龍福供述(1696年9月25日)後の古文献でも、二島説・一島説が混在併存していて于山島を“独島”とする主張は成立しないとします(30頁)。

第2章 一七世紀に領有権は確立したか
江戸時代の“松島”渡海免許の不存在を立証しています。そして、日本側の竹島広報資料(パンフレット)の“・・こうして、我が国は、遅くとも江戸時代初期にあたる17世紀半ばには、竹島の領有権を確立しました”との外務省見解を否定します(62頁)。(Gの見解):前者の松島渡海免許の存否は、現在の竹島領有問題に直結しないでしょう。後者の著者の指摘は、そのとおりで“竹島領有の端緒を築きました”とかにすべきでしょう。

第3章 元禄竹島一件―なぜ日韓の解釈は正反対なのか
幕府は、元禄竹島渡海禁令(1696年1月28日~朝鮮政府中央に伝わるのは翌97年2月14日)の過程で、鳥取藩に対して二度も竹島(鬱陵島)について(二回目は松島についても)質問しています。鳥取藩は、竹島と松島は、因幡・伯耆国(=鳥取藩)に付属する島ではありません(1695年12月25日・翌96年1月23日)と回答しています。そのことから著者は、元禄竹島渡海禁令には、(旧)松島が含意されているとします(→Gの見解)。著者の見解で注目したいのは、竹島・松島(解釈上松島も)両島への渡海が禁止されたからといって、松島は両国の議論の過程に出て来ないので、ただちに韓国側パンフレットがいうような幕府が松島を朝鮮領と認定した史実は存在しないという(82頁・222頁)。
(Gの見解):この“松島も含意されている”については、一応そのようにいえると思います(多数説でしょう)。しかし後年、天保竹島一件のときに幕府の対朝外交実務を担当する対馬藩は、“そう断定することはできない(1836年7月17日対馬島宗家文書)”と幕府評定所に回答しています(→下記第4章天保竹島一件)。少数説として、「松島無所属説」も排除されません。また、この時期この事件で、江戸幕府・朝鮮政府いずれも松島には関心がなかった(96頁)。したがって、両国政府ともに松島の領有意思がないことが読み取れます。

安龍福事件(来日1969年5月20日~8月6日)
元禄竹島渡海禁令が対馬藩から朝鮮政府中央に伝えられるまでに、朝鮮の対日外交使節と称して安龍福が来日しました。そのとき安は、松島とは子山島でわが国の土地である(粛宗実録)とか、江原道の中に竹島・松島あり(隠岐・村上文書)と主張したという。これらについて著者は、過大評価であり裏付けにならないとします(98頁・222頁)。

第4章 「空白」の二〇〇年―外務省が無視する二つの論点  
天保竹島一件という事件が起き、今津八右衛門という者の竹島(鬱陵島)渡海が発覚し、幕府評定所の審理を経て死罪を申し渡されました(1836年6月~判決同年12月23日)。この事件を受けて江戸幕府は、再度竹島への渡海禁令を全国法令(お触書)として出しました(翌1837年2月:天保竹島渡海禁令)。ここでも著者は、松島への渡海が禁止された文言はないものの松島への渡海も禁止されたものとします(106頁)。この事件の審理の途中、幕府評定所は対馬藩(対朝外交実務を担う)に竹島・松島についての問い合わせを行なっています。そのとき対馬藩は、松島については「松島もまた竹島同様に日本人の出漁が禁止されたとも考えられるがはっきりとはわからない」と回答しています(104頁・1836年7月7日対馬島宗家文書)。(Gの見解):ゆえに、対馬藩の見解に厳格に従えば、松島への渡海も禁止されたと断定することはできないと解します。

明治10年(1877年)太政官指令 
 明治10年に“竹島外一島は、本邦これ関係なし”との太政官指令が出ました。この竹島とは?外一島とは?どの島を指すのか!?議論があります。この指令に添付された資料「磯竹島略図」に従えば、竹島:鬱陵島、外一島:松島で現在の竹島になりそうです。著者の見解もそうです(112頁)。そして、こう解釈しない塚本孝説をすり替えと批判します(120頁)。(Gの見解):塚本説の論証の方が自然に感じます。詳しくは→右サイドでもリンクしているサイト<日韓近代史資料集>、同管理者による<太政官指令「竹島外一島」が示していたものiRONNA>を参照下さい。

第5章 古地図に見る竹島―日本側主張の検証2 
江戸時代の日本図 
近世までの日本領域は、北は「蝦夷地」手前まで、南は口永良部島手前までそれより以北・以南は、“境界領域”だから無彩色だとします(図8の地図の解説138頁)。もちろん、近世までの地図では西北域の松島・竹島も異域ですから無彩色です。
(Gの見解)これも賛成です。中世~近世までの日本の朝廷・幕府の施政権が及ぶ範囲は、日本本土とその周辺海域までです。図8の地図が示すとおりです(136頁)。むかし戦前は、日本本土のことを“内地”、その延長上にある地域を“外地”といっていました。いまでも北海道(旧蝦夷地)の人、奄美以南の南西諸島の人たちは、本土のことを内地といっています。著者がいう「境界領域」は、この境界領域内の地域を内地とすれば、「外地」の概念と同じです。ここで著者は、(旧)松島は日本でもなく異国でもない地域だとしています(138頁・松島無所属説)。
近代日本の海図と水路誌 
著者は、海図・水路誌は国境を示すものではないが、沿革上国境を意識した編集がなされ得るとし、1905年の竹島の日本編入前後の各海図・水路誌を検証すれば、現実にそう(国境を意識した編制)なっているとします(160頁)。そして著者は、1905年以前において、リアンクール列岩(竹島)は、日本領とは見なされていなかった(終章224頁)。(Gの見解):最後の結論部分を含めてそのとおりです(編入前ですから属島論が影響します)。

後続記事】<書評 竹島-もうひとつの日韓関係史・下>

この記事へのコメント

  • 会社員(30)

    いつもながら学術的な記事で読み応えがあります。

    さて「内地」「外地」について。
    内地は国土そのものですが外地は国際法上は「Territory」であり統治権の及ぶ領土に含まれます。分かりやすいのはカナダでしょうか。イギリスにとってインドは植民地「Colony」であり、カナダは外地「Territory」でした。独立するまでカナダは英領カナダです。よって外地は日本領に含まれると考えます。

    逆に誰の統治も及んでいない土地は「化外の地」あるいは「無主の地」と呼ばれます。

    ご紹介の著者は「境界領域」という言葉を使っておられます。伝えたいニュアンスはなんとなく分かりますが、おそらく地理学用語でも国際法用語でも存在しない単語だと思われます(私の不勉強でしたらすいません)。
    領土問題は国際問題ですので、国際法に基づいて議論するのが大前提だと考えます。
    2016年05月07日 18:53
  • 管理者Gくん

    こんばんは!この問題で、会社員(30)さんからコメントを頂けるとは思っていませんでした。意外でした。ありがとうございます。内地・外地の区分けは、英語ではそうなのですか!?納得です。カナダを引いてのイギリスの外地の例は、わかりやすいですね。書いてから、狭義の日本領域・広義の日本領域といういい方もあるのかな!?と思いました。

    尖閣問題を専門にしている・いしゐのぞむ先生が、台湾島は、チャイナが明の時代は、化外の地(無主地)だと説明していましたね。国家が近代国家に脱皮する19世紀は、あっちこっちに無主地=所属未定地があったとされます。幕末・明治初期の樺太(サハリン)とかもそうでしたかね。

    「境界領域」というコトバは確かにわかりにくいですね。著者は歴史学者ですから、国際法・地理学には詳しくないのだと思います。著者も意識したゆえか本書中では、その用語について説明を入れています。最後の会社員(30)さんのご指摘、国際法に基づき議論は、そのとおりだと思います。本書の著者は、無視はしていないのですけど軽視していますね。続編(下)でその点にも触れます。
    2016年05月07日 20:17
  • 管理者Gくん

    ↑第4章への自己レス(旧松島の前近代における位置付け)

    江戸時代~明治初期の前近代における竹島(鬱陵島)・松島(リャンコ島)は、文献上及び地図上も常に一対として扱われていました。幕府の対朝鮮戦外交を担当していた対馬藩も(幕府はその権威で決定を下すだけの存在)、ほぼそのように考えていたようです(「属島論」といいます)。しかし、対馬藩は旧松島を、竹島(鬱陵島)の属島的と考えていたことは事実ですが、一方では「そう断定できない」とも述べています。天保竹島一件での対馬藩宗家文書。この対馬藩の”旧松島は鬱陵島の属島的”という認識は、明治3年の佐田白茅らにも受け継がれ、当時設置されたばかりに外務省にも報告されました。

    以上を総合しますと、1905年の編入前の旧松島(リャンコ島)については、鬱陵島の属島的だという一般的な認識はありました。しかし、対馬藩は、”そう断定できない”とも天保の文書で述べています。この事実は、もっと注目されてもいい。
    2016年09月04日 00:25

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