書評 竹島-もうひとつの日韓関係史・下

<書評 池内敏『竹島-もうひとつの日韓関係史』下>  
第6章 竹島の日本領編入―その経緯と韓国側主張の検証2 
リャンコ島(当時の竹島名称)の日本領編入過程は以下のとおりです。 
りゃんこ島領土編入願い(1904年9月29日)→その閣議決定(1905年1月28日)→島根県告示(同年2月22日)

島根県隠岐在住の水産業者:中井養三郎による申請を契機とします。中井は最初この島を、朝鮮の領土と信じ、朝鮮政府に貸下願いを提出しようとしたことが知られています(奥原碧雲『竹島及び鬱陵島』1907年・『島根県誌』1923年)。なぜ中井はそう思ったのか!?容易に判断できます。「本島ノ鬱陵島ヲ附属シテ・・」(中井自身による「事業経営概要」1910年頃)、「海図によれば同島は・・」(奥原碧雲『竹島経営者中井養三郎氏立志伝』1906年)から、判断すれば編入前のリャンコ島(江戸時代:松島)は、江戸初期のその発見・命名以来ずっと鬱陵島(江戸時代:竹島)と一対で扱われていました。近代の海図・水路誌でもそうです。江戸時代の対朝外交実務を担当した対馬藩の認識もそうでした(天保竹島一件→上記第4章)。結局、中井による内務省・外務省・農商務省宛ての編入願いは、海軍水路部長の見解(リャンコ島無所属説)などを参考にして受理されました(175頁)。

于山島(~1899年)→石島(1900年)→独島(1904年頃?~)
この頃、鬱陵島朝鮮人住民が名づけしたとされる独島なる島名が出て来ます(初出:軍艦新高日誌1904年9月25日)。著者は、この独島名称の名づけは、韓国による領有意思の前段階だとします(178頁)。またこの時期は、リャンコ島で朝鮮人漁民との競合が想定できるとします(176頁)。

第7章 サンフランシスコ平和条約と政府見解の応酬
サンフランシスコ平和条約締結(1956年9月8日~発効翌年4月28日)後、韓国側は李承晩ライン(1952年1月28日)で竹島を取り込み、その後実力による不法占拠が続いています。その第2条a項に朝鮮との領土に関する条項があります。竹島は、ラスク書簡(1951年8月10日)を検討するまでもなくその起案過程の研究(終章の表5)で日本の領土として残っています。このことは、韓国の研究者レベルでは首肯されているとのことです(227頁)。

政府見解の往復(都合4回)
この問題について、日韓政府間で往復4回の見解の応酬がありました(1953年7月13日~199頁表4参照)。ここでは有力と思われる見解のみを紹介します。日本側の主張の核心は、言わずもがな1905年の日本領編入(無主地先占の法理)です。韓国側の主張の核心は、次の2点と断定できます。 1 鬱島郡守沈興澤の報告書(1906年3月29日)「本郡所属の独島は・・」。 2 日本政府に編入願いを出した中井養三郎の最初の領土認識「中井養三郎氏は、リャンコ島を以て朝鮮の領土と信じ・・」(『島根県誌』1923年など)。この2点が韓国側最大の論拠です。これらについてのGの見解は終章の項で述べます。

終章 「固有の領土」とは何か 
この章は、著者の結論部分と思われます。著者は、“問題の焦点”という項目で、歴史学者らしく次のように主張します。(要約)竹島/独島が自国領であるとの論証のうち前近代史の部分については、日・韓いずれの主張も意味がない。・・竹島問題を考える際に注意すべき時期は1900年をまたいだ約10年ほどである。この時期に・・鬱陵島在住の朝鮮人は「独島」なりの名づけを行なって領有意識を芽生えさせたとあります(230頁)。著者も重要視している韓国側の有力な論拠は、上記第7章:政府見解の往復(都合4回)の項目の2点のようです。詳しく触れています(1は237頁以下、2は233頁以下)。

1の鬱島郡守沈興澤報告書(1906年3月29日)の「本郡所属の独島は・・」については、著者は、独島が大韓帝国領であることを示す明文(→“石島”問題後述)はどこにも見つからないが、06年までに国家的領有の意識が存在したことを読み取るのは不可能ではないとします(238頁)。これは比較的反論が容易です。この鬱島郡守の認識は、中央政府の機関決定を経ていない個人的な認識です。著者のいう「国家的」領有の意識などとは言えません。(石島問題とは):大韓帝国勅令第四一号(1900年10月25日)の第二条は、鬱島郡の管轄区域を、鬱陵全島と竹島・石島としています。韓国政府はいつの頃か、その“石島”が現在の独島だとしています(183頁)。また著者は、この石島を「独島」とする変更をなんら手続きを経ずになされていたと想定することが可能であるとします(239頁)。この考え方には疑問があります。郡庁所在地の変更と領土の変更を同列に論じることはできません。閣議などの政府の機関決定を経る必要があります。

この鬱島郡守の報告による一連の騒動は、続報がありまして、同06年7月にこの騒動は収束しています(同年7月13日皇城新聞「鬱島郡の配置顛末」)。統監府は鬱島郡の所属島嶼を大韓帝国政府に照会し、大韓帝国政府は、その所属島嶼(勅令第四一号に定める竹島・石島)を示し、同時に鬱島郡の範囲も回答しています。著者が触れることはありません。

2 国際法による無主地先占論VS鬱陵島の付属島嶼論(属島論とも)
管見は、この問題は突き詰めるとこのような構図になると思います。編入願いの申請者中井養三郎の“朝鮮の領土と信じ・・”も、中井自身も告白するように「本島ハ鬱陵島ニ附属シテ・・」中井養三郎「事業経営概要」(1910年頃)の記述が付属島嶼論によることを示しています。他にもそのような付属島嶼論による即断は、枚挙にいとまがありません。この竹島問題に関連する見解では、天保竹島一件での対馬藩の見解も、基本的に付属島嶼論です(上記第4章1836年7月7日宗家文書)。他にも例えば、当時の実務書・学術書の岩永重華『最新韓国実業指針』(1904年)・田淵友彦『韓国新地理』(1905年)もあります。何といっても顕著な例は、SCAPIN第677号(1946年1月29日)と同第1033号(いわゆるマッカサーライン・同年6月22日)でしょう。ですから、江戸時代以来の「付属島嶼論」(属島論)を日本側も一定程度認めた方が、反論がしやすいと個人的には思っています。この属島論は、実態占有がなくても主張できるため(尖閣問題も「台湾の付属島嶼論」です)、常に付いて廻ります。これについて、有効な反論を考えるべきだと思いますけどいかがでしょうか。

【参考書籍】
下條正男『竹島は日韓どちらのものか』
内藤正中・金柄列『史的検証竹島・独島』
内藤正中・朴炳渉『竹島=独島論争』
第3期竹島問題研究会『竹島問題100問100答』

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【外部リンク】
<太政官指令「竹島外一島」が示していたものiRONNA>

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