きょうは、やや専門的になりますが竹島問題です。右サイドでもリンクしている竹島問題でのネット界第一人者<日韓近代史資料集>Chaamiey(茶阿弥)さんのオピニオンサイト<iRONNA>での論稿を紹介いたします。
1<iRONNA>韓国は110年前に竹島の領有権を放棄した? 謎多き「石島」の真実
2<日韓近代史資料集>筆者茶阿弥氏による原題「1906年に決着していた竹島問題」
竹島問題の現時点での集大成・決定版だと思います。<iRONNA>では5ページにわたる大部なので、興味のある読者は1<iRONNA>のリンク先をご覧ください。
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要約を兼ねて、2<日韓近代史資料集>での管理者Gのコメ欄での投稿記事を掲げておきます。
>いま一読いたしました。「1906年に決着していた竹島問題」<題名はこっちの方がよかったような。大韓勅令(四一号)1900年10月~「鬱島郡の配置顛末」1906年7月までを正面から論じたまとまった論考としては、おそらく本邦初ではないでしょうか。
「石島=独島」説、出て来ますね。これって主張しない方が韓国のためなんでしょうけどね。今さら引っ込めることもできない。この説が成り立たない(相手にしない)ことは、竹島問題の見解で何かと対立する茶阿弥氏(本論考筆者)と池内氏(中公新書著者)間でも異論がありません(笑)。
最後の5ページ目のまとめのところ(決着していた竹島問題・おわりに):いいですね。この問題の発端、島根県の神西訪問団来島の際の鬱島郡守沈興沢の報告「本郡所属の独島が・・」をキッカケに騒動が始まりました(06年3月~)。それに驚いた統監府(日本側)は、本当にそう「鬱島郡所属の独島」なのかを、公式ルートで大韓帝国政府(内務部)に”公式回答”を求めたのでしょう。これが皇城新聞(06年7月)の「鬱島郡の配置顛末」だと。そう読み取りました。
2016/8/26(金) 午後 10:39 [ Gくん ].<
>論稿を振り返って、途中やっぱり気になるのは、鬱島郡守沈興沢の報告「本郡所属の独島が・・」の認識です。これについて>鬱陵島から竹島/独島に行って帰って来るのだから竹島/独島は鬱陵島の付属の島だと考えるようになったのではないかと・・<と茶阿弥さんは述べています。
やはり、これなんですね。付属島嶼論(属島論とも)による即断は、江戸時代以来この問題では、常に付いて廻ります。日本側も、この属島論を否定したり無視したりするのではなく、一定程度認めて反論するのが有効だと考えています(持論)。
2016/8/26(金) 午後 10:41 [ Gくん ]<
【関連前記事】
1 <書評 池内敏『竹島-もうひとつの日韓関係史』上>
2 <書評 池内敏『竹島-もうひとつの日韓関係史』下>